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孤独について

  • 執筆者の写真: minus888
    minus888
  • 2018年12月31日
  • 読了時間: 3分

 今日ふと、寂しい気持ちになった。

 病院の帰りで、低い日差しがコートの中をじりじり蒸らすような冬の朝だった。

 インターネットなんかを長く見ていると、時たま賢そうな人が、「人と人は分かり合えるのか」というテーマで討論しているのを見ることがある。

 大抵の出発点は、身近な人間と意見が食い違ったり共感ができなかった時で、結論は決まって「そもそも人間は本質的に孤独なのだから、無理に共感を強いたり意見の足並みを揃えたりする必要はないのではないか」——そして、「共感し損ねた私は悪くない、傷つく必要もない」という理詰めの自己弁護——に終始する。

 共感「し損ねる」という事態は、思うに、人を傷つける。そういう自己弁護をさせるくらいに傷つける。そしてヒトがヒトという個体生物であり、他個体と物理的に接続していない以上、他個体から独立しているというのも事実である。

 けれども、「共感し損ねる」ことと、「ヒトが本質的に孤独」であることとは相関しないのではないか。

 なぜなら共感とは感情の問題だ。理性の問題ではない。たとえば「ヒトとヒトは分かり合えない」と思う人の主張を、「ヒトとヒトは分かり合えるのではないか」と思っている人がいたとする。彼らは互いを一切理解せず、一切孤独なのだろうか。「自分とは異なる意見」を、「持っている人がいる」という現実を認識している限り、その個体は完全に孤立したとは言えないのではないか。つまり、同じ言語で、理解できる言葉を話している限り。

 学生の頃、実習に出ていた薬局で、精神を病んだ人が通って来ていた。彼女は熱心に、政府が伝染病を隠蔽しているということを話し、自分はそのことを告発したことで世界的に表彰され、レッドカーペットの上を歩き、そして湖畔でレオナルド・ダ・ヴィンチから後継者に指名されたことを話した。意味を成していたのはそこまでで、それ以外の部分は、主語も述語も修飾関係も明確でなかったので、文章に書き起こすことすらできない。

 私は笑顔で彼女の話を聞きながら、彼女の話す内容を一切理解しなかった。私は肯定した。彼女を刺激しないために嘘をついた。

 人は本質的に孤独だが、ある人が他者によって否定されたり、共感を勝ち取れない理由は「その人が孤独ではないから」ではないだろうか。

 少なくとも、共感しそびれる度に人間の相互理解の可能性を否定するような人は、絶対的な孤立の絶望を知らない。彼らは、相互理解が成立することの幸いを意識することなく生きている。自分が絶対的な孤独に突き落とされる可能性、その恐怖を、全く想像しないで生きている限り、その人たちは健全に「寂しい」のではないかと思う。


 
 
 

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